酒井忠次によって退路を断たれた武田軍は突撃せざるを得なかった。 元々武田家の領国は甲斐や信濃というそれほど豊かとは言えない土地であり、今川家及び北条家との同盟を破棄し、信玄が義信を廃嫡してまで得た駿河は武田軍の略奪によって荒れ果てた。 更に甲斐の金山は掘り尽くした状態で財政的に厳しい状態だった。 そんな中長篠の戦いからすぐに質はともかくとして武田軍を立て直し、7年間武田家を守った勝頼はよく頑張り、信玄の負の遺産に押し潰された不運な武将だと言えると思います。
鳥居強右衛門の話何回聞いても泣きそうになるわ…
鉄砲の大量運用は雑賀衆のお家芸でこれに苦しめられた信長が真似したのが正しい。 現地は空撮映像でも分かるように長い凹凸のある丘陵地帯で、織田・徳川は兵の多くを背後の窪地に配して寡兵に見せて馬防柵と空堀を組み合わせた陣城を構築。 勝頼からすれば救援隊が数キロ手前で留まり陣を構築したのを見て敵は臆していると事実誤認。 この判断ミスが勝敗の分かれ目。 なお武田軍の侍大将の多くは退却戦の最中に戦死している事と、雑兵とは言え連合軍もかなりの戦死者を出しており、巷間伝えられるような鉄砲でほとんどやられたと言うのはイメージに過ぎない。
勝頼「野戦だと思ってたら攻城戦だったでござる」
教科書だと長篠の戦い→武田滅亡って同じ行に書かれるくらいだけど実際は7年もあるのか
1994年に発行された、『歴史群像』6月号(学習研究社・刊)の特集記事「激変!!長篠合戦論」と、同じ内容ですね。
名門の武田家を潰したのは、勝頼が不甲斐なかった為と思っていました。 でも、信玄亡き後いろいろ難しい問題があり、苦労したのだと思います。 とても興味深い内容でした。有難うございます。
最近の研究というなら織田も相当な被害出してる、武田の損害の大半が鉄砲ではなく追撃戦によるもの あたりにも触れてほしかったですね
映像が素晴らしい 450年後の人々は争うことなく平和に暮らし、分断されていた領地も高速道路でひとっ飛びだと教えてあげたくなる
陸自、長篠合戦古戦場へ見学に来ると聞いたことがあります。
『長篠の戦い』は、戦術的には「鉄砲」ばかり注目され勝ちだが、以前の通説と違い「三段撃ち」こそ否定された。但し「鉄砲奉行」が配置されていたから、少人数だがある程度纏まった「一斉射撃」はあったかも知れない。しかし「黒色火薬」を使用する関係上、発砲煙で直ぐさま「視界不良」となる他、「不発」も多くあったと考えられるため、絶え間ない射撃は不可能だったと思う。 それ故に織田・徳川連合軍の一番の勝因は、単純に武田軍の倍に及ぶ兵力を擁した事に尽きるんじゃないかと思う。
学校の歴史の教科書ってどこに配慮してるのか、はたまた製作者が知識に乏しいのか分かりませんが、「合戦」や「戦争」の記述があまりにも少なすぎてその時代の情勢が深く理解できないんですよね。しかし今やYouTubeの時代。教科書で知り得ない情報を知れるので本当にありがたいw
武田方が一斉突撃したのではないと初めて知りました。 勝頼公も相手が悪かったです。 信長、家康とも数々の負け戦を経験して謂わば百戦錬磨の武将。 野戦陣地も鉄砲隊運営も本願寺や数々の戦でお手の物。 信長は兵力を後方に上手く隠した。勝頼も信長は畿内の戦で忙しいからこれ程信長が兵力を集中していたとは読み切れなかった。 筒井や細川の鉄砲隊も5日程で会戦前日に到着しているから兵站線も整備していたのでしょう。 勝頼も此の後上杉謙信や北条と同盟しているので領国は安定していたが、謙信の死により運命は暗転した。
作成お疲れ様でした。私のご先祖の関わるこの戦興味持ってました。ありがとうございます。
現地に行って歩いて来ましたが、武田側から見ると、徳川・織田陣地はかなり小高い所にあります。寡兵による城攻めの体であり、かつ陣容が見えにくいことも考えると負けるべくして負けたのでしょう。ただし、ワンサイドゲームではなかったのだとも思います。
耕地整理された谷津田は、古い地図見ると信じられないくらいに川が蛇行してる。長篠の土地も多分ごちゃごちゃしてるはず。
色々な考察があって本当ロマンを感じる。 個人的には漫画のセンゴクの長篠の戦いの考察が面白かった。
ただ敗れただけでなく優秀な歴戦の武将を失いすぎたのが不味かったとおもうな…
長篠の戦い前に何度も小競り合いを繰り返し、信長は『武田は10倍の兵力でも向かってくる』事を知る。 敵が壊滅するまでは武田は何が何でも突撃を繰り返す事を信長は知ってた。 そこを逆手に取って馬防柵に湿地帯で大量の火縄銃で打ち砕いた。 武田の強みを弱点に変えた信長の勝利。
@深海魚-o1i